川上の友人の駒井みみちゃんが地獄のSEについて文章を書いてくれました!
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沢山の要素があって、登場人物はひとりずつが分かれた人間ではないように見えるし、媒体としてもみたことがない映画だったので、感想メモの情報が多くなってしまい何を書こうか迷っていたんだけど、[地獄のSE ブログ]で検索して語られていないものを書くことにしました。
それはズバリ!早坂さんのラブについて!くしゃっとした十勝について
わたしがクィアな映画として『地獄のSE』を読んだとき、確実なものとしてセックスを探しました。しかしどうもこの言葉はしっくりこない。映画のなかにセックスは写っておらず、肉欲が写っている。ナプキンに染み込むのは内臓の壁が剥がれ落ちて出た血。それを交換し、あるいは愛を引き出す道具としてパフォーマンスに使ってしまう早坂さんOMG...。そして“友達”で二人の関係をやっていこうと頑張った菊育美(この名前大好きfit)さんは内臓が飛び出てしまう。セックスという語はメタモンで、所有の意味として、欲望のディスポーザブルな対象として、情動の交換として、等々、意味が変化しまくって使われている感じがします。肉欲は使ったことがありません。が、肉欲に突き動かされて起きた出来事とは混在せずに、肉欲として文字通りに意味が通るように感じます。
早坂さんのラブが映っているシーンとしてパンを食うところを挙げます。
早坂さんは登場した時に、身体のあり方があらかじめ規定されるような机が並んだ教室で、地球儀をまわし、歌っていた。ケイト・ブランシェット、トロイ・シヴァン、ヘドウィグ、ANOHNI、unloved、コートニー・ラブ、Pshycotic Beatsな雰囲気のいい声で歌っていた。
菊育美が突然差し出したパン。そのパンを飲み込めないという映像が、キス-肉欲を像として写さずに、キス-肉欲を写し、さらにそれが早坂さんが求めているラブの確証(幻想かもしれない)として物語られているように見えた。だから、早坂さんのラブの行方を探して映画の時間が流れた。
隠喩は隠喩ではないということが映画では沢山起きていた。“これはジャムパン。ジャムは織物。”の“これはジャムパン”の部分をジャムパンだろうかと疑うことすら飛ばして、こういう見た目のイチゴと小麦の匂いがするやつという前提で、“これはジャムパン”を映像で言ったときに、それに続く“ジャムパンは織物”が隠喩ではなくて、ただ意味の画として映画を見る人の意識に差し込まれる。だから、あるものをそのまま表現することが、意味を挟んでいるのにも関わらず可能になっている。キス-肉欲も像として写さずに、飲み込めない、それでこそリアルなキス-肉欲が写っている。
『クィア・シネマ』を書いた菅野優香さんがセックスを描くときに不快感や幻滅、セクシュアリティの悍ましさを描く方がリアリティが出てくると言っていたことを聞いてそう思ったのですが、それでいうと、セクシュアリティを揺るがされる体験をする映画でもある。
気持ち悪いという不穏さがセクシュアリティの地盤が揺らぐきっかけであり、関係性の名前が変わることを恐れる瞬間だと思っています。そして、この恐れは気分です。パンを飲み込めない映像があったから、島倉くんが「ここ俺んちだから」と言ったように、例えば友達が"え、もしかして私のことが好きとか?"と互いに承知の嘘で言うことが、菊育美がパンを口で受けることが、私はゲイですという宣言、[私は誰を愛します]という宣言なしに許されないという気分を思い起こしました。映画を2回目にみたとき、くしゃっとした十勝が鮮明で、これはなんだろう?と思っていたのですが、こうして考えてみると「あ、やべ」と言っている感じがしてきます。
これは気分です。隠喩は隠喩ではないという解釈のしかたで世界を見渡すとき、キスは恋人のものではなかったのだ!と発見する。『地獄のSE』でそのことに気がついているのは菊育美さんだけ。と、勝手にdelusionして喜んでいます。
スーザンソンタグが生きていたら喜びそう。私はこんなに生きてる映画に出会えてうれしい。
駒井みみ
Instagram→@mim.you